雑誌を作ろう!!
そう思い立ったのは去年の12月23日です。
友人と話していて思いついたのですが、コンセプトもなにも決めていませんでした。少し考えてジョルジュ・バタイユの『ドキュマン』を参考にしようと思いました。
『ドキュマン』とはフランスの思想家ジョルジュ・バタイユが1929年に刊行した雑誌で、その紹介文にはこう書かれていたようです。
「まだ未分類のこのうえなく苛立たしい芸術作品、今日まで顧みられなかったある種の雑多な産物が、考古学者の研究のように厳密で学術的な研究の対象となるだろう。〔…〕ここでは全般的に、その影響がまだ明確ではないような、もっとも不気味な事実が考察される。このさまざまな探求のおいて、帰結や方法のときには不条理な性格は、常に礼儀作法に従ってなされるように隠されるどころか、凡庸さへの憎しみと同様にユーモアによって、断固として強調されるであろう」
江澤健一郎訳『ドキュマン』河出文庫 p294
バタイユという思想家については別の機会に書くとして、僕もこんな雑多な雑誌が作りたいと思いました。目にする思想雑誌にはなぜか画像がほとんど無いし、美術雑誌は偉そうな「批評」で溢れています。
なぜ思想雑誌にはイメージがほとんどないのでしょうか?
表象や文化、美学などについて論じながらイメージがないというのは不思議なことです。思想がそして言説が、机上の空論として意味のない戯言として扱われるのも当然だと思います。
かといってイメージ中心の美術雑誌に批評と名のつくおびただしい言葉が並ぶのも不思議です。イメージは言葉を裏切るものであって、上から目線の言葉がそう簡単に語れるものではないはずなのに、と思います。
なぜ人は変化を嫌い、確固とした価値ばかり好むのでしょうか?思想にイメージを持ち込んだら収拾がつかなくなるからでしょうか?ただ絵だけ並べたら誰も理解できないと考えるからでしょうか?
なぜ人は曖昧で不安定な、不気味なものを遠ざけるのでしょうか?
私たち人間はそんなに明白な目的や価値を持っていて、分かりやすい言葉で語れるような存在でしょうか?
もしそうでないとしたら、曖昧で不安定で不気味なものを遠ざけることは私たち自身を否定することにはならないでしょうか?
不安定で、価値も分からないけれど、その中に留まり続けることを肯定すること。曖昧さのなかに居続けること。目的や社会的な価値に振り回されない表現をすること。それが僕の目指す雑誌のような気がします。
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